2014年11月17日月曜日

一ヶ月半ぶりに優綺さんに逢えた日のこと

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優綺さんは、ツーショットの足を撮る。優綺さんが足を撮る時、決まって私は眠っている。カメラを構えると、なかなかツーショットを撮るのが難しいということが恐らく最大の理由だろう。三脚を使えばと言う人もいると思うが、わざわざ一眼レフのカメラを使ってプリクラの真似事をするというのも、いささか面倒な気分になるものである。

2014/11/13
装飾関係の仕事は、概して施設の営業時間外に設営を行うことが多い。そうすると、スタートの時間がそもそも遅いので、深夜にずれ込むケースが多い。この時期はクリスマスの設営が多く、毎日出勤している様な状況だ。現場が続くと、なかなか休みが取れないので、自然と優綺さんに逢える時間が減ってくる。

この日も、朝まで作業して一日時間が空いたという感じだ。作業に入る前に、優綺さんに早起きしてねとだけ伝えて、私の実家で集合した。この日、私が撮影した写真は見事にゼロだ。一緒にいながら、そのほぼ90%に値する時間を私は寝て過ごしたのだ。

優綺さんの証言によれば、私はふと目覚める度にどんな夢を見たか等を話して、話し始めたと思ったらすぐに寝落ちしているというような状況だったそうだ。他意はないが、やはりどんな形であれ一緒に時間を過ごすということは、大事なことなんだ。と、自分をフォローしておこうと思う。

休めるときに休み、逢えるときには逢う。これは、とても重要なことだと理解した。


2014年11月11日火曜日

優綺さんも写真を撮る様になったことについて

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私がしつこく恋人を撮るものだから、恋人も写真を撮る様になりました。

これは、割とよくあるタイプの話だと思う。優綺さんは叔母からCanon EOS KissNを譲り受けて最近写真を撮っている。カメラ暦の浅い私からすると、クラシックなカメラだなと思うこのカメラだが、いまだにFlickrなんかでもこのカメラを使った写真がアップされている。もともとkissはコンシューマー向けのカメラであると認識している。その為か、Flickrで見かける写真も多くの場合でライトユーザーが多い。しかし、このカメラをいまでも使用している人間(Flickrの範囲で)は、概して媚びない。本当に撮るのも見るのも写真が好きなんだろうなと感じる様な、そんな写真を見ることが出来る。つまり、kissの二代目であるこのカメラは、とても愛されているカメラだということが、理解できるわけだ。

今回のアップしている写真は優綺さんが自分で撮影した写真だ。写真を撮るより先に、三脚が必要になると彼女には伝えており、彼女は手に入れた三脚とカメラを現在は有効活用している状態ということになる。

ちなみに、初期費用は近くのおじさんから入手したという500円の三脚(スリックのミドルクラス。これは貰ったに近い)のみとなるわけで、私個人としては「撮るべくして導かれたんだろう」程度に考えている。私は、彼女の写真が好きだ。


最近は、仕事が忙しく優綺さんにあえていない時間が多い。必然的に、私の写真が更新されていない状況が続いている。これはとても寂しいもので、次にあったら常にカメラを構えてしまいそうな気がする。そんな日が続いている中、優綺さんがセルフポートレイトを撮り始めた。今回ブログに挙げている写真はそんなセルフポートレイトの中の一枚となるわけだ。個人的な先入観の中でセルフポートレイトの位置づけというのは、他者からの承認を得る一つの方法、もしくは、自分のことを忘れないでいてほしい等といった自己主張の一つ程度に考えていた。しかし、その認識を今回のこの写真で変えようと思った。
それは、当然この写真が存在する意味の先にいる当事者であるということが大きく影響するわけだが、つまるところ

次ぎ逢えたら、何しよう。

そんなことを考えるきっかけとなる。

それだけを私の記事を見てくれている人に知ってもらえれば、いいのかな。なんて思っている。きっと、どんなセルフポートレイトの場合でも慎重に立ち位置を変えながら一つの写真を見ることが出来れば受け取る面白さは変わってくるんだろう。そんな気がした。

2014年10月30日木曜日

ノンフィクションかフィクションかということについて

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優綺さんと熱烈交際をする様になって、私の写真の雰囲気はずいぶんと変わったと思う。
前々から私のことを知っている人なら「最近は、恋人のことをずっと撮ってるね」という認識がもう定着した頃だと思う。
私の写真は、それこそ多くの人から多くのことを教えてもらって、教えてもらったことの反映をしつこく反復しながら成り立っている。写真家教育を受けていない私が、自画自賛する写真が撮れているのは何も私が勤勉だからというわけではなく、周りの人が「教え上手」だということに他ならない。

さて、表題に挙げたノンフィクションかフィクションかということだがこれが写真の評価に直結するものでないことを先に言っておきたい。というのも、フィクションかそうでないかということは、偽物か本物かという認識に置き換えて簡単に理解しようとする人が多いからだ。

私と優綺さんは、交際している。これは事実だ。しかし、私たちの写真が、私たちの実生活の一場面かというと実は微妙なラインだ。私たちのデートの選択肢には「写真撮をりに出かけよう」というものがある。そもそも、当日行き当たりばったりで大まかなイメージを二人で組上げて、予定不調和の撮影を楽しむものである。意識の高い人なら、このくったくたのグレーゾーンを理解するだろう。私たちは、作為的に日常の一部と見せかけつつ、写真の為に立ち位置や撮影するタイミングを決めたり、姿勢を決めたりしているが―――これは私たちの日常の、デート作法の一つなのだ。

最近の写真の傾向として、VFX並みの写真を作り込む人と、通行人を撮る人とで大別されている様な気がする。しかし、カメラという機械的性質上、実はどちらも相違ない。
どちらも全てが実在し、ノンフィクションなのだ。


そうすると、フィックションな写真とは一体何か。ということになる。

個人的な判断としては、モノとコンセプトが一致していないものを指すと思っている。
例えば、あかの他人を撮影して恋人だと言うなら、それはフィクションだということである。つまるところ、写っているものを超えたコンセプトを当てはめることはフィクションである、と言いたい。

写真は、既成事実を作りやすいのでこうした事例は多いが、フィクションとノンフィクションの間には微妙な境界線がある。

2014年10月21日火曜日

空気が澄んで夕日が綺麗だった日のこと

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「感性とは、感動する心のコトだと思っている。それがどれだけ広いかが重要だ」というのは、内田繁さんの言葉。私が大学生の頃、氏が主催する展示会に行く機会があり、竹で編まれた茶室でひとしきり寝てみた後、氏に話しかけると「感動した?」と聞かれた。私は素直に「コンクリートの匂いが混ざっちゃうけど、竹と畳の匂いって何にも代え難いです」と答えた。その後、あの竹は釣り友達からまとめて貰ったもんだとか色々なことを教えてもらった。感動というと、少し大げさな話だが写真をしつこく撮る様になると、ふとした光景に胸をこ〜〜バクンとさせられることがある。だいたい、そういうときっていうのはカメラを持った無かったりするものだ。

2014/10/19
前日、優綺さんと待ち合わせて一緒に実家に帰った。最近、仕事が多い傾向なのでこうして二人で過ごす時間は貴重だ。帰宅後に夕飯を食べて、一息ついたら散歩したりしている。最近は、少し寒いが絶えられない程でもなく、散歩に丁度いい。

日曜日は昼くらいに起きた気がする。起きた後も、なかなかベッドから離れられず優綺さん恒例の「どうしたら手嶋は起きるのゲーム」を楽しんだ様子だ。目が覚めて、やけに嬉しそうにしてるときは大体その前にしこたまいたずらされているのが常だ。
昼食を取り映画を見た。といっても、AppleTVで自宅レンタルして視聴するというもので、非常にグータラに過ごしたという方が正確だろう。

最近は、日が沈むのが早い。もう4時には日が落ち始めているのだ。
居間に移動してみると、夕日で部屋中が黄色くなっていた。ふとした感動の時間に珍しくカメラを持っていたのですぐに優綺さんを呼んで撮影した。

私の写真が「作品」という枠に入らないのは、こうした能天気な正確が原因だろうとよく納得したが、小さなことでワクワク出来るというのは、これまた何にも代え難いことだと感じる。



2014年10月15日水曜日

田辺バナナがおいしかった日のこと

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先日優綺さんと出会ってから一年が経過した。出会ってから会うたびに(ざっくりと)記録されていて、時がくればその当時が思い出せるのは写真を撮り続けているからこそだろう。
さかのぼること一年前、大通公園を散歩しながら写真を撮った時から見ると分かりやすく撮影の内容が変化している。その変化に気がつくのもまた、写真を撮り続けているかこそである。

写真というものは本当に一瞬しか残さない。特に私たちの撮影の場合には1秒に満たない時間をカメラが二次元に変換している訳だから「記憶のヒント」という枠を超えることは無い。ただ、理解してもらいたいのは写真を撮っているとき私たちは確かに同時に同じ場所に存在していて、二人でおちゃらけているということだ。

2014.10.12
かねてから行きたいと思っていたモエレ沼公園に出かけた。ちなみに、ほぼ一年振りとなる。前回の訪問は、2013.10.13である。その日は、雨だったが後に晴れてマジックアワーを体験した思い出がある。

・・・・・良い機会なので、その当時の写真を載せてみる。

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といっても、今年に入って改めて補正しなおしている写真なのであまり今と変わらないか。
強いて言うなら、優綺さんの髪の毛が長く、ちょっと毛先をフワフワさせたりしちゃっているあたりがちょっと違う。この当時の自分なら、バナナを頭に載せるなんてことは考えなかっただろうと思うが。


さて、今回のモエレ沼散歩は移動の途中に寄ったローソンで田辺農園のバナナを発見したことに始まる。公園中をバナナを持った女の子とカメラを持った男の子が散歩している訳だから、よほどハッピーなカップルに見えたことだろう。しかし、このバナナの房としての完成度が高いことに撮影しながら気がついていき、散歩を終えた頃に一口食べたところ笑ってしまうほど美味だった。

バナナの話が盛り上がってきたところだが、それほど色々なバナナを食べたことがある訳ではないので、この田辺農園のバナナが他と比べてどうかという評価は出来ないが、是非一度ご賞味アレと思う(ん、なんでバナナの販促してるんだ?)

一日を通して、念願のモエレ沼公園に行けたことは週末のリフレッシュとなった。散歩はやはりいいものだ。

これからも、一年前にたどった道を振り返りつつ新しい脇道に踏み出せれば今後も楽しいことは増えていくだろうなと思った。

2014年10月14日火曜日

優綺さんと恊働撮影第二回目の日のこと

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私の写真の特徴として「撮影される側との距離が近い」ことだと思う。これは、先日お会いした写真家 加藤睦さんが私に伝えてくれた一言である。
いかんせん主観的にしか撮っていない傾向があるので、加藤さんの様に私の写真に対して客観的に意見してくれる人はとても貴重である。

古い方のFlickrアカウントを流し見ると、この「距離が近い」という話もマトを得ているなぁ〜と納得する。優綺さん以外の女性に関してはほぼほぼ会って少し話して撮影するという流れのものが多く、心理的な距離感はそれほど近いわけではない。実際のところ撮影した後、写真をデータで渡してそれっきりというケースの方が圧倒的に多いのだ。それでも、距離が近いという印象を受けるのは、干渉したがりの性格が写真にも現れているということだろうか。

2014/10/11
かれこれもう10月だ。北海道の紅葉も、各地で見頃を迎えている様子だ。
撮影してほしいと女の子から連絡が来たのは前の週くらいだったと思う。前回優綺さんと撮影した女の子の様に何か明確な理由があったワケではないが、きっとなんかあったんだろうと勝手に納得した。

最近は優綺さんもファインダーを覗く。優綺さんは、女性らしい感覚で写真を撮る。とても部分的なピックアップをして写真に納めるのだ。私は割と大雑把に写真を撮るのに比べて優綺さんは細かいパーツをしっかり撮っているケースが多い。とても感心する。

この日は、洋服を宙に浮かせて撮影するというそもそものコンセプトは決まっていた。あとは、どんなロケーションでそれを実行するかというコトが大事だった。優綺さんと探し当てたロケーションは割と良かったものの、女の子の方からリクエストのあった「夕日」が望める様な開けた場所に出ることが出来なかった。この点は、次回への反省にしよう。

今回の写真は優綺さんが撮影したものだ。女の子の爪が可愛かったという単純な理由だが淡く紅葉したモミジと相まって、とてもいい塩梅だ。
今後も二人でときどき写真を撮りに出かけるというのもいいなと改めて感じた。

2014年10月6日月曜日

優綺さんと知り合ってから1年が経過した日のこと

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自分の中で時より揺れるのが「文化的なところにリンクしたい。しかし、それより今を満たす経済力が欲しい」という考え。これは、いわゆる一般的な方にとっては「あぁ〜なるほどね」と割と理解しやすいジレンマである。しかし、実際にそうした最前線に身を置く方にとっては「縁が無いか、才能が無いか」というものだろう。残念ながら、私という人間は見た目通りストイックさに欠けるのである。

ごく最近の話だが、店舗でフォトセッションを開催した。開催したと言っても、企画の持ち込みは写真家 加藤睦さんで、私の方は店舗のスペースを貸したに過ぎない。ただ、写真という文化的なものに何か提供が出来たということが、私としては価値ある体験だった。

2014/10/05
2日間に渡るフォトセッションの二日目。初日も楽しかったが、二日目もやはり楽しい一日となった。前日は大荒れだった天気も、今日には晴れて過ごしやすい様子だった。
午前中は、久保ヒデキさんと加藤睦さんによるフォトレッスンとして時間を割いており、4日間程度の告知を見て参加された方は実際にライティングによる変化を体験し楽しそうだった。ちなみに、フォトレッスンのモデルは優綺さんだった。


実は、この日は私と優綺さんが知り合って丁度一年が経過する日でもある。今日に至る1年の記憶が鮮明なのは、知り合ったときから会う度に彼女の写真を撮っているからこそのことだと思う。拙いながらに継続したことで得られる感動だと思う。

知り合った頃の優綺さんに私は「よく言って地味」と言った。写真を撮り続けるにつれ、彼女と親交を持ち、結果的に今に至る。一連の流れは、お互いに何か魅力を感じる男女の割と一般的な展開であって、どちらかというと私の熱烈アプローチによる結果。とも言えなくもない。

さて、知り合って一年ということで今を振り返ってみると知り合った頃からずいぶんと私たちを取り巻く環境が変化している。
当然、私の写真の撮り方も変わっているし、優綺さんが私に見せる表情も全く違うのである。私にとって写真は映像の抽出という感覚は相変わらずだ。知り合ってから次第にお団子みたいに丸くなっていく優綺さんの表情も楽しんでもらえれば、私が写真を撮る意味が少し正当化される気がする。

今でもなお、お互いの信頼感が醸成されている最中にいるということだ。