2014年10月30日木曜日

ノンフィクションかフィクションかということについて

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優綺さんと熱烈交際をする様になって、私の写真の雰囲気はずいぶんと変わったと思う。
前々から私のことを知っている人なら「最近は、恋人のことをずっと撮ってるね」という認識がもう定着した頃だと思う。
私の写真は、それこそ多くの人から多くのことを教えてもらって、教えてもらったことの反映をしつこく反復しながら成り立っている。写真家教育を受けていない私が、自画自賛する写真が撮れているのは何も私が勤勉だからというわけではなく、周りの人が「教え上手」だということに他ならない。

さて、表題に挙げたノンフィクションかフィクションかということだがこれが写真の評価に直結するものでないことを先に言っておきたい。というのも、フィクションかそうでないかということは、偽物か本物かという認識に置き換えて簡単に理解しようとする人が多いからだ。

私と優綺さんは、交際している。これは事実だ。しかし、私たちの写真が、私たちの実生活の一場面かというと実は微妙なラインだ。私たちのデートの選択肢には「写真撮をりに出かけよう」というものがある。そもそも、当日行き当たりばったりで大まかなイメージを二人で組上げて、予定不調和の撮影を楽しむものである。意識の高い人なら、このくったくたのグレーゾーンを理解するだろう。私たちは、作為的に日常の一部と見せかけつつ、写真の為に立ち位置や撮影するタイミングを決めたり、姿勢を決めたりしているが―――これは私たちの日常の、デート作法の一つなのだ。

最近の写真の傾向として、VFX並みの写真を作り込む人と、通行人を撮る人とで大別されている様な気がする。しかし、カメラという機械的性質上、実はどちらも相違ない。
どちらも全てが実在し、ノンフィクションなのだ。


そうすると、フィックションな写真とは一体何か。ということになる。

個人的な判断としては、モノとコンセプトが一致していないものを指すと思っている。
例えば、あかの他人を撮影して恋人だと言うなら、それはフィクションだということである。つまるところ、写っているものを超えたコンセプトを当てはめることはフィクションである、と言いたい。

写真は、既成事実を作りやすいのでこうした事例は多いが、フィクションとノンフィクションの間には微妙な境界線がある。

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