2014年9月12日金曜日

最近の自分の写真の傾向のことについて

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以前に比べて、自分の写真に目に見える変化があるように思う。少し前のフィルムみたいに仕上げる癖は相変わらずだが、画面の整理(?)というのに無関心になってきた気がする。良い写真というのは、理解される写真だと認識している。つまりコンセプトが明確に写真から受け取れるものが良し。ということだ。

さて、自分の写真を客観的に見るとどうだろう。最近は概して散らかっている。特に、FlickrなりGettyなりにアップする写真に関しても最近はさほど気にせず「間抜け」なほど良しとしている気がする。

それこそ、ファッションフォトグラフィーの様にこだわり抜いてセッティングして虎視眈々と整理された写真はどれも美しく「あぁ〜〜〜、まねっこしたい〜〜〜」なんて衝動に駆られるものだが、いかんせんズボラな性格なので頭の中であぁ〜してこ〜してなんて考えているうちに忘れてどうでも良くなってしまう。彼らの様なオシャレな写真は、私の様な人間とは別の軸にいるんだろうと問題のはけ口をそこに置いてしまう。
なにはともあれ、今後も優綺さんと過ごす映像の一部を抽出して残していこうというスタンスに変化は起こらない。

さて、先日祖母の家に行った際この写真を撮影した部屋に、私の父が撮影したであろう家族のアルバムがあった。どれどれと中を優綺さんと拝見してみた。当時、父も写真にこっていたということを最近耳にするが、センスはあまりないだろう予想をしていた。実際アルバムの中身はというと、予想を裏切らないへたくそな写真集だった。ピントも合っていなければ、現像もヒドい。残された枚数も少ないことから、残っていない他の写真はそれほど悪かったという予想は容易につくものだ。

しかし、見方をすこしズラしてみれば父は誰が見てもへたくそな写真の数枚に価値を感じてどうにか残してきたということだ。事実、姉の幼少期の写真と姉の娘の今を比べながら「似ているね」と優綺さん笑った時間は、写真を撮影した父の功績にほかならない。
(ちなみに、私の母はクリエイティブとはほど遠い人間だが、父を撮った写真がやけに上手なあたり私たち3兄弟の技術力は母の遺伝とみて正しいだろう)

そんな写真の数々を見ると、最近特に間抜けて来た自分の写真もいつか振り返ったときには、それなりの功績になるだろうと、やけに楽観的に考えてしまう。私という人間は、いつもそうして陽気である。

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